反面教師の鑑の手帖

僕みたいになりたくない人に贈る駄文。

おたなっとーという名前の由来

昨日ブログを開設して、いくつか記事を投稿したところ、思いのほか反響があった。何人かに面白いと言ってもらえた。TwitterでRTやふぁぼを貰うのも嬉しいが、それ以上に思っていることを字数を気にせず吐き出したブログを面白いと言ってもらえることは快感だった。

さて、ブログを書くことに快感を覚え始めたのはいいものの書く内容が思いつかなかったのでとりあえず「おたなっとー」というハンドルネームの由来を書いてみたい。

僕がTwitterを始めたのは中2の夏、当時の僕は阪神タイガースとAKBにハマっていた。ネットを見始めてYahoo知恵袋のアルファベット→数字というハンドルネーム(?)に憧れを持った僕は、オタクのotaと、当時の推しメンあっちゃん(前田敦子さん)の誕生日7月10日から710を取ってota710という名前でTwitterのアカウントを作った。ota710というIDでota710というハンドルネームだった。作った当時はなっとーという読み方もなかったので、その時からのフォロワーさんの中には、今でも「おたさん」と呼んでくれる方もいる。当時リア垢という概念はなく、ota710でリア友も沢山フォローしていたのだが、そのリア友の1人が「おたなっとー」という読み方を考えてくれたので中3頃にハンドルネームをota710からおたなっとーに変えた。

これが、おたなっとーの由来である。ちなみに高校時代の僕は「なっとー」というあだ名だった。元々ネットで仲が良かった人にはおたを省略して「なっとー」と呼ばれていたのだが、リア垢を作った後に知り合ったリア友にまで「なっとー」と呼ばれるようになった理由はこうだ。高校に入る頃、Twitterで知り合った人とLINEを交換し始めて、その人たちが本名だけだと困るだろうと思ったのでLINEの名前を「(名字)なっとー」にしたことにより、高校で出来た友達が面白がってなっとーなっとー言い始めたのが広がったということである。後に浪人垢を作る際にも「なっとー」というハンドルネームを採用したため多くの人になっとーと呼ばれることとなった。

リアルでもよく由来を聞かれるが、いつも「語感」などと適当に答えているのでちゃんと語ったことは無かった。正直昨日書いた記事より文の質がかなり低い気がする。内容もどうでもいいことではあろうが一応記事にしておく。

浪人中のことと総括。

前の記事はプロローグみたいなもので、これが本編である。

2017年2月末、明治大学商学部の不合格通知を受け取った僕の浪人生活が始まった。自分の中では新たなスタート、という気持ちでストレスはあまり感じていないつもりだったのだが、その後数日何度も嘔吐したので深いところでかなりストレスを感じていたらしい。
確かに浪人というのは辛い。今まで同級生だった人達に先をいかれる。置いていかれたという感覚。同級生に陰で笑われているような気がしてならなかった。実際に笑われていたかも知れない。それに加えて親に迷惑をかけているという罪悪感。そして来年も落ちたらどうしようという不安。浪人始まりたての頃はそこまで感じていないつもりだったが、夏を過ぎたあたりからどんどん大きくなっていった。

僕は弱い人間なので、辛さをそこまで感じていない段階から仲間を探そうとTwitterのアカウントを作った。これは昔からネットで仲良くしていて一緒に浪人したネフレの提案だった。元々Twitterのアカウントはいくつも持っていたが、いわゆる浪人垢というやつを新設した。当時の僕は浪人界隈なんてものは知らなかったが、全国の沢山の浪人生と辛さを分かり合えたことが凄く嬉しくて、Twitterにのめり込んでいった。ちなみに浪人中の総ツイート数は3万に及ぶ。最初は浪人たちと励ましあって切磋琢磨する垢にするつもりだったが、気づけば深夜に下ネタを叫ぶ垢になっていた。最初に作った垢を消したり、縮小に籠ったりと様々なことをしつつ、結局元々使っていた趣味のアカウントと統合して今に至る。
浪人界隈で起こった様々なことは面倒なので割愛するが、僕が浪人界隈で得たこと知ったことをまとめると、
・女子との会話に少し慣れた
・世の中には色々な人がいるので隙を見せてはいけない
せいぜいこの位である。時間の無駄だったと言ってしまえばそれまでだが、精神的な支えになっていたのもまた事実である。結果としてTwitterをやっていて良かったと思っている。これは受かったからこそ言えることではあるが。

ところで僕は予備校に通わない宅浪というものをしていた。宅浪というのは成功率が低い。誰にも会わず、誰とも話さず、ひたすら独りで勉強しろというのだから当たり前である。そんな状態では誰でもダレる。宅浪を成功させるには鋼の意志が必要だ。そして、外で自習する場所。(僕も浪人生活の半分くらいの日数は近くの公民館で勉強した。)前の記事にも書いた通り、僕はmarchに落ちたから、ニッコマに行きたくないから、という舐め腐った理由で浪人を決めたのでダレた。引きこもりは簡単に昼夜逆転する。気づけば朝の4時5時に寝て昼過ぎに起きる生活が普通になっていた。こんな生活をしていたので一日当たりの平均勉強時間は三時間半である。現役の時の方がよほど勉強していたように思う。正直、浪人して受かった大学も、現役の時1点差で落ちたところだったため誤差みたいなものである。浪人して学力が伸びたのではない。去年は運が悪くて、今年は運が良かった。それだけだ。生半可な決意では宅浪で成績は上がらない。
親は、甘ったれた僕が予備校に行ったとしても結局ダレるであろうことを見越して予備校には行かせないと言ったのだろう。それは正解だったと言わざるを得ない。

僕の浪人生活をざっと振り返ると、
3月4月…Twitterで知り合った浪人と通話をしたりゲームしたりする日々。まだまだ時間があると感じ、気持ちにも余裕があった。
5月6月…そろそろやばいと思いつつも勉強が出来ない。無気力に過ごしているうちにどんどん時間が過ぎていった。
7月8月…唯一まともに勉強をした。浪人界隈ではエンカが最盛期を迎えていたが、僕は勉強をし続けた。この時が最も充実していた。
9月10月…早稲田は厳しいかなと思いつつなんとなく勉強はしていた。どこかフワフワとしていたように思う。
11月12月…志望を下げる。心配ばかりが大きくなって布団の中で丸まってTwitterを見るだけの日が増える。嘔吐の回数が増え、逆流性食道炎と診断される。
1月2月…センター後無気力になり勉強しなくなる。不安で全く勉強が手につかなかった。直前期に勉強を怠っていたため入試で失敗を繰り返し、一時期は就職も覚悟していた。食事が喉を通らず本当にしんどい日々だった。家庭が壊れていく音が聞こえた。

こんな感じである。
基本勉強せずに心配だけして病むというのを繰り返していた。心配だけしていてもどうにもならないのは分かっているが身体が動かない。これが鬱ってやつなのかなどと考えたりもした。勉強してようがしてまいが浪人はとにかくしんどい。人生において悪くは無い経験だったとは思うが二度としたくはない。受験抜きの宅浪ならいくらでもしたいが。世間はそれをニートと呼ぶ。

春から浪人という人に向けて言いたいのは、
・無理するな。身体壊したらどうにもならない。
・1日5時間でも6時間でもいいから継続するのが大事。
Twitterの人でもリアルの友達でもいいから定期的にあって話そう。
・プライドは捨ててしっかり滑り止めも受けよう。
・宅浪なら早朝バイトで生活リズムを作るのもあり

ということくらいである。そもそも成績伸びてないくせに偉そうに言うなという話しだ。ごめんなさい。

浪人に至るまでの経緯

Twitterのフォロワーの方ならご存知かもしれないが、僕は高校を卒業した後1年間浪人していた。
そんな僕の浪人が決定するまでの流れを勝手に語らせてもらいたい。

小中と、まあまあ成績上位だった僕は、地元神奈川でいわゆる二番手校と呼ばれるような公立高校に合格した。調子に乗った僕は高校の間勉強をサボりまくった。英語に限れば学年最下位を取ったのも一回や二回ではない。全国偏差値は38だった。
そんな劣等生だったが、高校2年時の選択は理系で、電気通信大学を目指していた。しかし英語が出来なさすぎて数Ⅲと英語を同時に勉強するのは無理だと考えた僕は、高校三年生になる時に文系に選択を変えて、私立文系を目指すことにした。当然高三になり受験勉強を始めたが努力の二文字を知らない僕の成績は伸びなかった。周りが早慶早慶と言うのに感化され、「まあ俺もmarchくらいなら受かるだろ」とタカを括っていたが、結果は一般試験全落ちだった。あの時何の努力もせず親の前で泣いていたのは本当に滑稽だったと思う。「march未満の大学なんか行けるわけがない」とプライドだけが肥大した僕は、唯一センター利用で受かった東洋大学も蹴ることにした。浪人の始まりである。

ブログを始めます

僕のTwitterアカウントは色々な人と繋がっているので、言えないことが沢山ある。好きなことを呟いて、フォロワーにリムられたらそれまでの仲だったと割り切ることが出来たら楽かもしれないが、僕にそんな勇気はない。

ということで誰にも見てもらえなくていいから、好きなことを言わせてもらおうということでブログを開設してみた。

このツイート通り、ブログなんか書くのは中学生以来だし、文才もないので稚拙な文章ではあるが飽きるまで続けていきたい。誰にも見てもらえなくていいからとは言いつつも、誰かには読んでほしいので1人でも読んでくれる人がいたら嬉しい。