反面教師の鑑の手帖

僕みたいになりたくない人に贈る駄文。

中高時代のこと。中学編

こんばんは。

 

今日は雪のせいか、バイト先にほとんどお客さんが来なかったのでほぼ突っ立ってただけで日給7000円を手に入れたおたなっとーです。

 

ここ数日やり始めたこの導入ですが、自分でもセンスを感じられないのでやめようかどうしようか迷っています。

 

ところで、今日はお題を頂いたのでそれについて語りたいと思います。

 

 

今日のお題

中学時代のこと

 

また自分語りかよって思われた方もいるかもしれませんが、頂いたお題なので許してください。

 

変な気もしますが、何となく語る時は常体の方がやりやすいのでここから切り替わります。

 

僕は埼玉の小学校に通っていて、中学に上がる時に横浜に引っ越してきた。当然知り合いが全くいない中で中学生活が始まったが、割とみんな話しかけてくれて友達はできた。小学生の時は野球をしていたが、中学レベルについて行ける気がしなくて緩い運動部に入ろうと思い、卓球部に入部した。

 

うちの卓球部は顧問が未経験者で、部長が強い権限を持っていた。15人近くいた3年生の先輩が引退して1つ上の先輩と自分達だけになると部員は6人だけになった。この時部長だった先輩はめちゃくちゃイケメンでめちゃくちゃ強かった。区大会で優勝もしていたし、県大会でベスト32まで残っていた。その他5人は個人戦区大会(横浜市政令指定都市なので市大会の前に区大会がある)でベスト16に入れればいい方というレベルだったのでかなり差があった。これが何を表しているか察しのいい人なら分かると思う。部長の言うことは絶対で誰も逆らえなくなるのだ。もう1人の先輩も部長の言うことには全く逆らえなかった。少しでも部長の機嫌を損ねると練習参加禁止、ひたすらフットワーク、筋トレなどを課せられた。教室に呼びだされたのも一度や二度ではない。しかし、僕は部長が好きだった。練習中じゃなければ、後輩の僕らに奢ってくれたりして優しかったし、色々な話もした。午後ティー一気飲みをやらされたり、タフマンを顔にかけられたりと、無茶ぶりやイタズラもかなりされたがいい思い出になっている。

 

 

最後の団体戦で負けて先輩が引退すると僕が部長に指名された。はっきり言って僕は部長の器ではない。部をめちゃくちゃな事にしてしまった。部が部長(僕)・副部長派ともう1人の上手い同期派に分かれて一触即発状態になったりした。後輩にも慕われるどころか嫌われていたと思う。当時は自分のことでいっぱいいっぱいで部のために何もできなかった。という訳でで部長になってからは部活に行きたくなかったし、今でも中学の部活のことを思い出すと嫌な気持ちしか湧いてこない。

部活の話はこのくらいだ。

ちなみに中学の部活における最高成績は

個人戦 2年時の秋の新人戦区大会12位

団体戦 3年時春の区大会 2位 

である。

 

次は成績について。自慢ではないが中学までは大体の科目で勉強しなくてもいい成績が取れた。しかし基本的に評定の関心意欲態度の部分が抜け落ちていたので内申点は良くなかった。神奈川県の公立高校の入試では

2年の後期の成績+(3年の12月の成績)×2

の135点満点が内申点として使われる。

僕は36+39×2の114だった。

 

ちなみに僕が英語を苦手としているのは勉強しなくても点が取れると調子に乗っていた中2の時につまづいて以来のことである。他の科目はそれなりに出来るのに英語だけは出来なかった。高校入試でもかなり低い点を取った。

 

最後に生活だが、まあ今と変わらず陰キャを極めていた。休み時間にラノベを読む、家に帰ってTwitterをする。そういう生活だった。当然彼女など出来るわけもなく、Twitterで告白した女の子に振られてその後ストーカー扱いされる黒歴史of黒歴史だけが残った。

そんな僕が唯一輝いたのは文化祭だった。クラスで有志団体としてやった劇のクライマックスにダンスを踊る女子たちと一緒に出てきて1人でヲタ芸を打った。あれは渾身のヲタ芸だったしかなりウケた。中学唯一の表舞台での活躍であったと自負している。

 

ここまでダラダラと語ってきたが、オチもないし、数人の友達と数多くの黒歴史しか残っていない。同窓会も行く気がしない。思い出したくもない。そんな中学生活だった。


高校編は気が向いたら書きます。